2000年9月東海豪雨災害を省みる
2005年7月より西枇杷島町・新川町・清洲町が合併して清須市になりました、文中の町名は合併以前の名称が使われておりますので、ご了解ください。その他発表者の資格・名称は2001年3月のものです 前田 修
2001年3月10日愛知県医師会主催で第19回救急医療・災害医療シンポジウムが
愛知県医師会大講堂で開催され、私が「新川の決壊と西枇杷島・新川地区での対応」
という題目でシンポジストとして発表いたしました。
愛知県医師会大講堂で開催され、私が「新川の決壊と西枇杷島・新川地区での対応」
という題目でシンポジストとして発表いたしました。
日時 平成13年3月10日(土)午後2時
場所 愛知県医師会9階大講堂
1.開会 愛知県医師会 理事 加藤 修一
愛知県医師会 会長 大輪 次郎
2.シンポジウム
主題 『東海豪雨災害と問題点』
座長 愛知県医師会救急委員会 委員長 栗田 高三
愛知医科大学高度救命救急センター 教授 野口 宏
シンポジスト[発表時間一人15分]
コメンテーター 愛知県医師会副会長 藤野 明男
討論、質疑応答[40分]
3.閉会 愛知県医師会 理事 加藤 修一
私の診療所は愛知県の西春日井郡新川町で新川堤防の決壊した現場の対岸であったため、床上20センチ程度の被害で済みました。
お隣の西枇杷島町では一階が水没した医療機関もあり被害は深刻でした。以下直接被災した一医療機関が経験した経過と被災医療機関に直接お話を伺って得た情報を元に当日シンポジストとして発表した口述文です。
お隣の西枇杷島町では一階が水没した医療機関もあり被害は深刻でした。以下直接被災した一医療機関が経験した経過と被災医療機関に直接お話を伺って得た情報を元に当日シンポジストとして発表した口述文です。
(始めに)
2000年は例年にない寡雨でしたが9月11日東海地方は100年に一度という大豪雨災害の来襲を受けました。被災した地区医師会会員に対して日本医師会、愛知県医師会をはじめ、各方面から温かい励ましとお見舞いをいただき厚くお礼申し上げます。
現在、地域の外観はほぼ災害以前の状態にもどったかのように見受けられます。
しかし住民のなかには、強い不安体験や恐怖体験をした方も多数見られます。
ライフラインの途絶や車の水没によって生活が不便になり、あとかたづけで心身ともに疲れきっていても、休養がとれない状態が長く続きました。
水害直後の混乱の中では、皆が同じような状態であったため、気持ちが一丸となって比較的安定していましたが、生活が落ち着いてホッとしたときに、それまでこらえていた不安や恐怖がじわじわとあらわれ、精神的な問題が浮かび上がってきているようです。
最近になってこのようなトラウマで「夜眠れない」「体調が悪い」等の症状で相談される方がおられます。長期的な観察と、必要があれば精神科医によるカウンセリングが必要であると思われます。
しかし住民のなかには、強い不安体験や恐怖体験をした方も多数見られます。
ライフラインの途絶や車の水没によって生活が不便になり、あとかたづけで心身ともに疲れきっていても、休養がとれない状態が長く続きました。
水害直後の混乱の中では、皆が同じような状態であったため、気持ちが一丸となって比較的安定していましたが、生活が落ち着いてホッとしたときに、それまでこらえていた不安や恐怖がじわじわとあらわれ、精神的な問題が浮かび上がってきているようです。
最近になってこのようなトラウマで「夜眠れない」「体調が悪い」等の症状で相談される方がおられます。長期的な観察と、必要があれば精神科医によるカウンセリングが必要であると思われます。
(水害の経過と医師会の対応)
今から四百年前、尾張地域には網の目のように川が流れ、見渡すかぎり芦原が続いていました。庄内川はたびたび氾濫し、現在私どもが暮らす地域も大きな被害を受けてきました。
名古屋城築城以後は、庄内川の左岸堤防が補強され洪水被害を受けるのは、もっぱら右岸側の地域となりました。
このような状態を見かねた庄屋丹羽氏と尾張藩士水野氏の尽力により新川が開削され、以後洪水は激減し芦原は豊かな農地に生まれ変わりました。
しかし、開削から二百余年を経た現在、周辺の開発が進み、新川への負担が増加してきたという事実は否定できません。
近年新川地区と西枇杷島地区は少しでも雨が降ると浸水するという被害を繰り返してきました。そのため各町は排水ポンプ場の整備を進め、今では多少の台風などではまったく被害はなく、住民としては安心していた矢先の出来事でした。
名古屋城築城以後は、庄内川の左岸堤防が補強され洪水被害を受けるのは、もっぱら右岸側の地域となりました。
このような状態を見かねた庄屋丹羽氏と尾張藩士水野氏の尽力により新川が開削され、以後洪水は激減し芦原は豊かな農地に生まれ変わりました。
しかし、開削から二百余年を経た現在、周辺の開発が進み、新川への負担が増加してきたという事実は否定できません。
近年新川地区と西枇杷島地区は少しでも雨が降ると浸水するという被害を繰り返してきました。そのため各町は排水ポンプ場の整備を進め、今では多少の台風などではまったく被害はなく、住民としては安心していた矢先の出来事でした。
9月11日月曜、夕方から雷を伴う激しい雨で受診者もわずかでした。
濡れたマンホールの蓋で滑った初老のご婦人がずぶぬれで受診され、診察の結果手関節の骨折があり、整復ギプス固定の処置をしました。
19時診療が終わる頃には、近くの農業用水も濁流と化し、低い土地では車が通れなくなりました。医院の前でも乗用車が無理に水の中に突っ込んでエンストし、数台を職員と共に高い場所に移動させました。11日は、電話がかかりにくいというだけでさしたる不便もなく、町内の自宅まで車で帰宅しました。
濡れたマンホールの蓋で滑った初老のご婦人がずぶぬれで受診され、診察の結果手関節の骨折があり、整復ギプス固定の処置をしました。
19時診療が終わる頃には、近くの農業用水も濁流と化し、低い土地では車が通れなくなりました。医院の前でも乗用車が無理に水の中に突っ込んでエンストし、数台を職員と共に高い場所に移動させました。11日は、電話がかかりにくいというだけでさしたる不便もなく、町内の自宅まで車で帰宅しました。
12日午前0時10分防災無線で避難命令が出たため、家族は中学へ避難し、私は自宅2階で就寝しました。その後さらに豪雨は続き、越水が始まりました。
ポンプで排水した水が堤防からあふれ出し、県からの要請でポンプの運転を停止しました。そのためさらに水位が上がりました。
ポンプで排水した水が堤防からあふれ出し、県からの要請でポンプの運転を停止しました。そのためさらに水位が上がりました。
9月12日火曜未明に新川堤防が約100メートルにわたり破堤、新川と庄内川にはさまれた西枇杷島町、新川町が浸水を始めました。
自宅前でも道路が川のようになり、どこが道路か田圃か分からなくなりました。午前8時、医院の状態が心配で膝まで水に浸かりながら、徒歩で医院に向かいました。
流木や汚物と思われる漂流物を避けながら、普段なら15分のところを1時間かかって医院までたどり着きました。医院は玄関のたたきまで水が来ていました。
停電で電気が使えなかったため、井戸の汲み上げが行えず水も出ない状態でした。
休診の張り紙をして帰宅途中、昨日整復した骨折の患者さんが気になり、患者宅まで行きましたが、水が床上まで来ておりノックしても応答がありませんでした。
昼前自宅に帰着すると、中学に避難していた家族も帰っていました。骨折の患者さんの話をすると、ギプスを巻いた人が同じところに避難していて元気そうだったということで、安心いたしました。
携帯がかかりにくい状況でしたが、何度かのトライで西枇杷島町の地区医師会長と連絡が取れました。会長宅周辺では、人の背丈ほどの浸水で船でしか行き来できないとのこと。食料の配給を受け取るために子供の浮き輪に捕まって受け取りに行ったそうです。
自宅前でも道路が川のようになり、どこが道路か田圃か分からなくなりました。午前8時、医院の状態が心配で膝まで水に浸かりながら、徒歩で医院に向かいました。
流木や汚物と思われる漂流物を避けながら、普段なら15分のところを1時間かかって医院までたどり着きました。医院は玄関のたたきまで水が来ていました。
停電で電気が使えなかったため、井戸の汲み上げが行えず水も出ない状態でした。
休診の張り紙をして帰宅途中、昨日整復した骨折の患者さんが気になり、患者宅まで行きましたが、水が床上まで来ておりノックしても応答がありませんでした。
昼前自宅に帰着すると、中学に避難していた家族も帰っていました。骨折の患者さんの話をすると、ギプスを巻いた人が同じところに避難していて元気そうだったということで、安心いたしました。
携帯がかかりにくい状況でしたが、何度かのトライで西枇杷島町の地区医師会長と連絡が取れました。会長宅周辺では、人の背丈ほどの浸水で船でしか行き来できないとのこと。食料の配給を受け取るために子供の浮き輪に捕まって受け取りに行ったそうです。
被害状況を伝えようと有線で県医との連絡を試みましたが、回線のパンクでそれも不可能でした。携帯もその後全く通じませんでした。
○老人保健施設「満点星」は西枇杷島地内、古城交差点から北に500メートルにあります。
床上1.5メートルの浸水で、職員が事務機、薬品など出来るかぎり2階にあげましたが、リハビリ施設や入浴設備に大きな被害を受けました。
入所者は2階以上にいたため、避難誘導に関しては問題ありませんでした。
12日浸水後、自家発電用の軽油、食料援助を県に依頼しましたが、自衛隊による運搬は引き受けるが、軽油、食料は自分で調達しなさいと言う返事でした。
それでも被害の大きさがマスコミにより知られるようになると、12日夕方には自衛隊のヘリが屋上に着陸し、援助物資が到着しました。
床上1.5メートルの浸水で、職員が事務機、薬品など出来るかぎり2階にあげましたが、リハビリ施設や入浴設備に大きな被害を受けました。
入所者は2階以上にいたため、避難誘導に関しては問題ありませんでした。
12日浸水後、自家発電用の軽油、食料援助を県に依頼しましたが、自衛隊による運搬は引き受けるが、軽油、食料は自分で調達しなさいと言う返事でした。
それでも被害の大きさがマスコミにより知られるようになると、12日夕方には自衛隊のヘリが屋上に着陸し、援助物資が到着しました。
○自宅は幸いにも停電せず、インターネットで県医師会のHPにアクセスしてみると、いつものように接続する事が出来ました。12時52分、事務局へ県医師会長宛デジタルカメラで撮った浸水中の医院写真をe-mailで送りました。

(電文)
愛知県医師会会長宛 西名古屋医師会
9月12日新川堤防が決壊、新川と庄内川にはさまれた西枇杷島町が浸水しました。西名古屋医師会会長「堀田クリニック」では床上80センチの浸水で、レントゲン装置、CT等が被害を受けました。また老人保健施設「満天星」では、一階が1メートル以上の浸水、入所者の食事に不自由しているとういう状況です。新川町でも床上数十センチの浸水があり、周りの道路も車での通行が不可能で、多くの医療施設が休診しています。有線で県医との連絡を試みましたが、回線のパンクでこれも不可能です。医師会無線は西春町にあるため、こちらも使用出来ない状態です。幸い今のところ人的被害は少ないようです。12時現在水位は上昇しつつあり、台風の進路も気になるところです。
14時07分事務局から返信がありました。
(電文)
前田先生、大変お世話になりました。愛知県医師会事務局です。大変な状況のなか、ご報告いただき、ありがとうございました。先生からのメールは、医療システム担当で受信しましたので、救急医療担当に渡しました。大変な状況、写真からも伝わってきます。心よりお見舞い申し上げます。
(以上)
19時03分県医救急災害担当をされている藤野先生からお見舞いの返信をいただきました。
(電文)
このたびは思わぬ豪雨禍に見まわれ、心からお見舞い申し上げます。まだ、いろいろとお取り込み中とは思いますが、県医からお手伝いできるようなことがありましたら、ご遠慮なくお申し出下さい。掘田会長宅の復興をお祈りしております。よろしくお伝え下さい。
(以上)
その後数回にわたり藤野先生にはe-mailでご報告申し上げ、その都度励ましのお返事をいただき大変心強く感じました。
13日増水は止まり、徐々に水位も減少していきました。医院の後片付けにとりかかりかりましたが、院内は汚泥とガソリン臭で惨憺たる有様でした。
被害の少なかった師勝町の理事先生から電話連絡があり、県医との連絡役をお願いしました。
14日には西春町の済衆館病院に、15日には師勝町の新居外科に救護班として出動をお願いいたしました。また新川町では、被害の少なかった有志の先生が、避難所を訪問して患者さんの手当を行いました。
被害の少なかった師勝町の理事先生から電話連絡があり、県医との連絡役をお願いしました。
14日には西春町の済衆館病院に、15日には師勝町の新居外科に救護班として出動をお願いいたしました。また新川町では、被害の少なかった有志の先生が、避難所を訪問して患者さんの手当を行いました。

14日新川町、西枇杷島町も何とか車が通れるようになりました。
しかし至る所に、水没した故障車が放置してあり、多くの道路が渋滞しておりました。自衛隊による消毒作業が開始され、各家庭には行政からクレゾールが配布されました。
しかし行政は薬品の調達に苦労したようで、全地域に配布を完了するしたのは16日のことでした。クレゾールの使用方法が添付してありましたが、一般人には分かりづらいと思われる内容でした。幸いにも、伝染病などの発生はありませんでしたが、薬剤の備蓄、使用方法の周知という点にに改善が必要だと思われます。
しかし至る所に、水没した故障車が放置してあり、多くの道路が渋滞しておりました。自衛隊による消毒作業が開始され、各家庭には行政からクレゾールが配布されました。
しかし行政は薬品の調達に苦労したようで、全地域に配布を完了するしたのは16日のことでした。クレゾールの使用方法が添付してありましたが、一般人には分かりづらいと思われる内容でした。幸いにも、伝染病などの発生はありませんでしたが、薬剤の備蓄、使用方法の周知という点にに改善が必要だと思われます。
テレビ、新聞ではあたかも西枇杷島町が被害の中心のような報道がなされておりましたが、報道各社の視点により取捨選択されていたようで新川町においても同等それ以上の被害でした。
新川病院は昨年3月新病棟増改築工事を無事完了し4月から介護保険施設として順調にスタートを切った矢先、今回の水害に遭いました。
12日午前より少しずつ浸水が始まり膝上くらいの浸水でしたので、薬局、事務室の薬品、カルテなどの書類を必死でうえの棚に上げていました。玄関脇の大きなガラスが水圧で割れると一気に浸水し大人の背丈でも立っていられなくなり、職員全員2階へ避難しました。
病院施設の一階部分、検査棟では2.3メートルの冠水、外来棟、病棟では1.8メートルに及ぶ冠水で病院全体がまるで泥水に浮かぶ船のようでした。検査棟の診断機器、レントゲン機器類はまったく救いあげる余裕のないうちに完全に水没し、厨房も調理不能となりました。
2日間の冠水で新川病院へ避難されたご家族、入院患者さんには事故がなく不幸中の幸いでした。2日間外部との連絡は絶たれ、携帯電話さえ通話困難で、ボートで救助に来ていただけるボランティアの方が唯一の連絡手段で民間病院とはいえ公的機関からの連絡は全くなく職員はボートに乗ったり、泳いで病院にたどり着く有様でした。
12日午前より少しずつ浸水が始まり膝上くらいの浸水でしたので、薬局、事務室の薬品、カルテなどの書類を必死でうえの棚に上げていました。玄関脇の大きなガラスが水圧で割れると一気に浸水し大人の背丈でも立っていられなくなり、職員全員2階へ避難しました。
病院施設の一階部分、検査棟では2.3メートルの冠水、外来棟、病棟では1.8メートルに及ぶ冠水で病院全体がまるで泥水に浮かぶ船のようでした。検査棟の診断機器、レントゲン機器類はまったく救いあげる余裕のないうちに完全に水没し、厨房も調理不能となりました。
2日間の冠水で新川病院へ避難されたご家族、入院患者さんには事故がなく不幸中の幸いでした。2日間外部との連絡は絶たれ、携帯電話さえ通話困難で、ボートで救助に来ていただけるボランティアの方が唯一の連絡手段で民間病院とはいえ公的機関からの連絡は全くなく職員はボートに乗ったり、泳いで病院にたどり着く有様でした。
(通信の途絶)
災害直後から通常の設置電話、携帯電話は回線の集中により通話出来ない状態が続きました。
9月12日から13日、つまり災害2日目から3日目にかけて、被災医療機関への連絡はまったく不可能でした。、情報のほとんどは、被災地に直接徒歩で救援に向かった出入りの薬屋さん、問屋さんから得られました。
インターネットのISDN回線に関しては、県医師会とのe-mailは普通に動作しておりましたので、今後も有用だと思われます。ただし今回の災害時には、被災医療機関のほとんどが停電し、かつ一階に設置してあったコンピュータ機器が水没したため、個々の医療機関同士の連絡に使用することがが出来ませんでした。
モバイルコンピュータとPHSとを併用すれば、停電や水没の際にも活用できるのではないかと思われます。14日の災害4日目以降は電気が復旧し、設置電話、携帯電話も通じるようになりました。
9月12日から13日、つまり災害2日目から3日目にかけて、被災医療機関への連絡はまったく不可能でした。、情報のほとんどは、被災地に直接徒歩で救援に向かった出入りの薬屋さん、問屋さんから得られました。
インターネットのISDN回線に関しては、県医師会とのe-mailは普通に動作しておりましたので、今後も有用だと思われます。ただし今回の災害時には、被災医療機関のほとんどが停電し、かつ一階に設置してあったコンピュータ機器が水没したため、個々の医療機関同士の連絡に使用することがが出来ませんでした。
モバイルコンピュータとPHSとを併用すれば、停電や水没の際にも活用できるのではないかと思われます。14日の災害4日目以降は電気が復旧し、設置電話、携帯電話も通じるようになりました。
医師会無線に関しては、西名古屋医師会では設置場所が西春町の医師会事務所にあったため、今回はその役目を果たすことが出来ませんでした。
今回のような局地的な災害ならば、設置場所の変更や増設などの工夫をすれば、十分活用できると思われます。しかし、災害が県内全域に及んだ場合、中継基地を介する現在の方法では通信途絶となる恐れがあります。阪神淡路大震災でも、その有効性、実用性が確認されたアマチュア無線を医師会員に普及させるなど、新たな通信手段の導入も考えていかなければならないと思います。
今回のような局地的な災害ならば、設置場所の変更や増設などの工夫をすれば、十分活用できると思われます。しかし、災害が県内全域に及んだ場合、中継基地を介する現在の方法では通信途絶となる恐れがあります。阪神淡路大震災でも、その有効性、実用性が確認されたアマチュア無線を医師会員に普及させるなど、新たな通信手段の導入も考えていかなければならないと思います。

(まとめ)
被害状況を早期に把握することが、災害時の救援活動に最も重要な点です。当初県の対応は被害の報告と救援以来がなければ、動かないと言う姿勢でした。通信機器の水没、停電、携帯電話も回線集中により使えないとなれば、救援以来さえ困難と考えます。今回、医療救援活動は災害発生から3日目という速さで開始されました。このことは、大変素晴らしかったと思います。しかし、これは水害が局地的であったことや、徒歩ではありましたが、被災地へ出向くことが可能であり、直接生の情報が得られたことなど、幸運に恵まれていたからこそだと思われます。災害直後から現在に至るまで、住民から医療救援に対しての不満の声は挙がっていません。住民の不満は、行政の災害対応のまずさと河川管理の不備に向けられているのが現状です。
以上 前田修